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パンプキン・シザーズや機甲兵団J-PHOENIXや電脳戦機バーチャロン、MGSに三国志やガンダムなどのメカを中心にお絵描きしたり、語る日記です。

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2008-01-23 [ Wed ]
タイトルはあまり関係ないです。
昨日の続きを書いていこうと思います。

さて、張任、劉封と続きお次は蜀の後期を支えた将の一人『王平』です。


姓は王、名は平、字は子均。母方の姓である何平と名乗っていた時期がある。
漢中攻防戦の際、漢中の地理に詳しいことから、曹操に郷導使に任命されたが、同僚の徐晃と仲違いし、殺されかけたので、陣に火を放って劉備に降り、以後蜀の武将として仕えたことになっている。
街亭の戦いでは、山頂に陣を敷き逆落としを掛けるのが上策と言う馬謖に反対し、王平の部隊は馬謖とは別行動をとる。馬謖が諸葛亮の命令を無視したために、魏の武将張郃によって蜀軍は大敗してしまうが、王平の指揮する部隊だけは踏みとどまって殿軍を務め、整然と行動したため、張郃は伏兵があるかと疑い、追撃の手をゆるめ、これにより全滅を免れた。
また南蛮戦(南征)でも活躍している。
諸葛亮は臨終の時、忠義の士として廖化や馬岱らとともに王平の名前も挙げている。


演義での出番は少ないけれど優秀な武将ですね。
家が貧しかったために若くから戦場に赴き、武勲を手にしてきたたたき上げの武将です。
そのため読める漢字は10文字程度だったというのが有名ですね。
しかしながら記憶力が非常に良く、口述筆記させた文章は道理に適っていたという。

『史記』・『漢書』を人に読んでもらってその大略をつかみ、論じては要旨を捉えていた。
法律を忠実に履行し、戯言を口にせず、終日端座するという武将らしからぬ様子であった。と記されている稀なタイプの武将ですね。
若き頃から戦場に出陣していたため学問を積めなかったと言わず、努力して兵法や学問を身につけるその心は私も見習うところが多いです。


最後に紹介する武将は、若き頃から学問が好きだった魏の将『李典』です。

姓は李、名は典、字は曼成。
謙虚な人物で、若い頃は武芸よりも学問を好んだという。
190年、陳留で挙兵した曹操の下へ乗氏県から三千騎の一族郎党と食客を率いて馳せ参じた、従父・李乾に従って行動を共にした。
夏候惇や曹仁の副将などで出陣するこが多く、輸送隊の護衛や後詰めなどの役割を果たすこともある。
208年の赤壁の戦い以降は、張遼や楽進と共に合肥に駐屯して、翌209年に呉の孫権の侵攻を防いでいる。

しかし、李典はかつて従父・李乾を殺害された経緯から、旧呂布の部将であった張遼とは険悪の仲だった。そのために、いつも作戦を巡っては常に対立していたが、楽進の仲介もあって、『国家の大事に私情は差し挟めない。』と言って張遼と共に協力し合った。やがて、李典は歩兵八百を率い、逍遙津にて奇襲で十万人の呉の軍勢を迎え撃ち、果敢に撃退したという。
演義では太史慈を討ち取った功績もある。


学問を多く学んだ彼は優れた兵法も持ち合わせていたようですね。
公私を混同せず、国家の一大事ならば過去に囚われず共に敵を迎え撃つと言った彼は武将の鑑とも言えましょう。
影に日向に大将を武や知略で助け、的確な助言など常に冷静沈着なところもカッコイイですね!
ゲームでも武力よりは知力で君主や将軍を支える感じですね。


桃園の誓いの3人や一騎当千の武将もいいけど、こういった知略や努力などで君主や将軍を支えた武将たちも大変素晴しいです。
昨日から今日にかけて紹介した4人の武将が私の中では№1です。輝いてますっ

今日はここまで!
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